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堀江大工の祖・堀江佐吉

堀江大工の歴史

私の高祖父にあたる堀江佐吉は、旧第五十九銀行本店本館(現青森銀行記念館)や、旧弘前市立図書館、現在の太宰治記念館である斜陽館など、明治期 津軽地方において数多くの洋風建築物を手掛け、大工の神様と呼ばれた人物です。

弘前藩の御用大工の家柄に生まれ、元々は洋風建築に関する知識はなかったが、弘前に初めて洋風の兵営が建築されその時から興味を抱き始め、出稼ぎで開拓使時代の北海道へ渡った際、建ち並ぶ洋館に目を奪われ独自に洋風建築の研究に没頭したとされております。

また洋風建築のみならず、弘前城天守の石垣が崩落した折には、天守閣を人力にて移動させ石垣の修復を行い、革秀寺や長勝寺の修繕工事等、城大工の技術を生かし和風建築の名手でもあったようです。

佐吉は金銭には恬淡で、革秀寺や長勝寺の修繕工事の折には修理費を全額肩代わりしたり、暇があれば職人たちに飲み食いさせたりなど私利私欲にとらわれない性格でした。
当時、堀江組は700人を超える職人を抱えておりましたが、常に陣頭に立ち職人達に細かに技術指導をしてきた統率力と、面倒見の良い人柄によって、佐吉を慕い敬い、彼の元に人や仕事が集まってきたのだと思うと身が引き締まる思いです。

堀江佐吉

堀江佐吉

旧弘前市立図書館(青森県重宝)建築中の様子

旧弘前市立図書館(青森県重宝)建築中の様子

堀江佐吉の流れをくむ工務店
旧高谷銀行本店(現盛農薬倉庫)登録有形文化財 つがる市

旧高谷銀行本店(現盛農薬倉庫)
登録有形文化財 つがる市

佐吉が亡き後、その知識と技術を受け継いだ子供達が中心となり、旧第八師団長官舎、藤田家別邸洋館、翠明荘、日本基督教団弘前教会堂等の建築に携わり堀江組を大いに盛り立てた。

また、私の曾祖父で佐吉の三男 堀江竹次郎は若くして体を壊し病弱ではあったが、大工としての腕は確かで、佐吉の弟 横山常吉と共につがる市木造にある旧高谷銀行本店の設計と施工にあたったようです。

その後、佐吉の七男 幸治が堀江組を継承し、大正11年に竹次郎の長男で祖父の堀江幸次郎が茂森町にて「堀江工務所」を創業することとなります。

当時は堀江組の仕事を請け負ったり、個人宅の新築工事や修理などを手掛けていたようで、方言詩人で「まるめろ」の著者 高木恭造の自邸・高木眼科医院や、土手町にあった今泉本店などの新築工事を手掛けたと聞いております。

住まいの相談所 ヨコヤマ堀江工務所へ

祖父が堀江組の現場に来ていた実習生の中で、その働きぶりに惚れ込み、住み込みの弟子として連れてきたのが、父で先代の横山文雄でした。
祖父には3人の息子がおりましたが、父の腕と仕事ぶりを見て、とても敵わないと大工の道を諦めたそうです。その後、末娘である母と一緒になり、堀江工務所を継承します。

高度成長期の住宅建設ラッシュの頃には、住み込みの弟子を数名抱えながら、現場にて技量をふるっていた父が、作業中に機械で右手の指を全て失うという大ケガを負ってしまいます。職人の命である利き手を失うという不幸は、想像を絶する苦悩と苦労があったと思います。
しかしその後は設計、弟子の育成と経営者として手腕を発揮し、当時県内ではまだ普及していなかった無落雪屋根(スノーダクト)や外張断熱工法を、先進地である北海道に学びに行きいち早く導入するなど、最先端の技術を取り入れた、より良い住宅の供給に奮闘しておりました。
そして平成3年、法人登記する際「ヨコヤマ堀江工務所」へ社名変更いたしました。

先代の他界後も、父を古くから知るお客様などから「あなたのお父さんにはお世話になったんだよ」そんな言葉を聞くたびに、父の人柄と偉大さを痛感しつつ、先代達が築いてきた信頼と、周りの皆様に支えられながらお仕事をさせていただいている身に感謝です。

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